断定を避ける塾長の文体について
ときに納得させられ、ときに笑わされ、ときにホロッとさせられる筆のさえは失礼ながら本職の文筆業の方々よりも、よほど百戦錬磨という気はします。
さて塾長の回答のなかに「・・・という気はします」という表現が非常に多く見られます。(私も流用させていただきました。断定しないのはともかく「・・・という気がします」という表現さえ使わず「気はします」という表現を選ぶ塾長の心理状態はいかがなものなのでしょうか。
(山梨県 43歳)
変わりゆくもの断定はできません
ゴルフスウィングもゴルフに対する考え方も、常に変わってゆくものと思います。
変わりゆくものであれば、断言するのは、他人に対しては非礼であり、己に対しては無責任すぎるというもの。
自分自身のペンにこれでいいのか、という不安を感じることもあります。私は間違いを間違いと謝ることのできる柔軟な筆を持ってみたいと思っております。
私の努力は原稿料に対する義務と責任であると思っております。私は自分の筆の中で、読者諸兄に問いかけている自分自身を時々、感じます。
ライターとしては、卑怯な姿勢かもしれませんが、プロゴルファーとして追い求める理論に対しては、この姿勢は許されると思っております。私は未熟、未熟ゆえに泥のついたままのにんじんのような文章を書いております。
時が過ぎ、文体が変われば構成も変わり、主義主張も変わりゆくものでしょう。秋の雲のように、気ままに書いてゆきたいと思っております。
「気はします」という書き方も変わる日があるかもしれません。
何事にもフンワリと応接してゆきたい、近頃そう思っております。
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