試合のあとの寂寥
フェニックストーナメントの終わった日曜日の夕、試合会場の彼方此方には淋しさのみが漂っている。
選手としての時には、まず味わえない、寂漠とした淋しさである。私はプレスバッジを身につけ始めてから、裏方仕事の喜びと淋しさがある程度、分かってきていると思う。プレスの男達には哀愁がある。美しき心情に満ちた男達がいる。私はプロゴルファーよりは、彼らに男の誇りを感じる。
選手は華である。華は競技を終え、次の試合地、あるいは家路へと移ってゆく。彼らが去る時、陽はまだ明るい。プレスの人間が仕事を終え、クラブハウスの玄関に立つ時、暗闇がすべてを包んでいる。大会関係者もいない。いるのはフロント職員のみ。彼らにとっては手慣れた一日の終わりではあろう。私は一つの仕事を為した安堵、そして祭りにとり残されたような空しさとを感じた。
私は華の生活を体験している。寂の想いを残してコースを去りたくない。悔しさを背負って去れる選手でいたい。何とか月例のポイントを撮りたい。月例決勝大会は全力を尽くす。
田舎の亀と時間
私はズボラになってきているようだ。友人との約束事の時間変更は多くなってきているし、日々の生活にメリハリがなくなりつつあるようにも思える。田舎もんの私、一介のプロゴルファーにすぎぬ私が、時間と競争する都会生活に紛れたこんだのがその一因と思える。
あるいは贅沢病かもしれぬ。昨年までの私であればビルの3階からは階段で下りて来た。昇るのも同様。しかし、現在の私は1階を移動するのにもエレベータを意識し出している。1分1秒の時間と競争する訳でもないのに、時を追おうとしている忙(せわ)しない自分を覚える。ひょっとして時間に追われているのではなかろうか。
だが私は亀のようにノロマであっても確実に前へ進める歩みをしたい。どん亀が私には似合っている。浮かれすぎた私に亀の生活ができるか、それは大いなる疑問ではあるが。
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