ジャンボ尾崎が全盛を誇った90年代、彼を脅かす存在だったのが外国人プレーヤーたち。時に憎らしいほど強かった彼らはいま、どこで何をしているのだろうか?
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1994年には年間5勝を挙げ賞金ランク2位になったワッツも、いまやシードなし
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まもなく始まる男子ツアーの出身で初のメジャーチャンピオンに輝いたのは、トッド・ハミルトン。ジュニア時代から将来を嘱望され、大学卒業後、米ツアーを目指したがQT(予選会)に落ち続け、アジアに活路を求めたハミルトンは日本ツアーで成功を収めた。
その後、38歳で挑んだ8度目のQTで通過。遅咲きルーキーともてはやされた。そして翌2004年の全英オープンでアーニー・エルスとプレーオフの末優勝。
「シンデレラストーリーだね」と自画自賛した日からすでに6年がたっている。
メジャーチャンプとして活躍が期待されたが、その後は鳴かず飛ばず。昨年、メジャー勝利で得た長期シードの期限が切れ、QTに再挑戦するが上位進出ならず。だが昨年の賞金ランク133位の資格で今季も20試合前後に出場の見込みである。
ハミルトンとは学生時代からライバルだったブライアン・ワッツは日本で通算12勝を誇り、1998年の全英オープンでマーク・オメーラとプレーオフを戦い、こちらは敗れているものの、日本ツアーのレベルの高さをアピールした立役者。
その後米ツアーでしばらくプレーしたものの、シードが獲れず格下のネイションワイドツアーに流れたあと、持病の腰痛が悪化。最近は戦う場を求め国内ツアーのQTを受けているが昨年はサードで敗退。かつての栄光を知っている者にとっては、その凋落ぶりが悲しい。
一方、選手からアジアンツアーのエクゼキュティブチェアマン(会長)に華麗なる転身を遂げたのがミャンマー出身のチラ・ハーン。日本での優勝はないが、1999年にアジアンツアーの賞金王に輝き2004年に現役を引退。選手が中心になってツアーを運営するスタイルに改革された2006年から会長職に就くと、欧州ツアーとの提携に積極的に乗り出し同ツアーの拡大に貢献。現在も要職で、その手腕をいかんなく発揮している。
別表でもわかる通りレッスンプロへ転身した選手はほとんどいない。シニアになっても戦う場を求め、たとえどんな小さな試合であろうとも出場し、競技の場に身を置こうと奮闘する彼らの実態に触れ、プロゴルファーの性を垣間見た気がした。
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1994年には年間5勝を挙げ賞金ランク2位になったワッツも、いまやシードなし
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