No.367 『裸足で打席に立て』
10/14 更新
ショット時に抱くイメージは?
ショット前に弾道のイメージを持つことは大切だといわれますが、塾長はどんなイメージを持っていますか。私はドライバーでどこまで飛ばそうとか想像するくらいで、あまり具体的なイメージを持っていません。高さと曲がり幅、落としどころ・・。ほかにどんなイメージを持てばいいショットが打てるようになるのでしょうか。
(静岡県・34歳)
私は何も考えてはいません
私は何も考えてはいません。何も考えず、何も想わずにアドレスに入り、アドレスに入れば体が勝手にスウィング始動しており、私にできる事と言えば飛び行く球を眺め、そのスウィングの結果を受け入れるだけ。
無とゆう訳ではなく、空とゆう訳でもなく、何も考えず、何も想わずに時を過ごしているだけの事。難しくはない、厄介でもない、面倒でもなく、退屈でもない、すべてはさり気なく、さり気なくのままに。
逆流の水は泡を立てる。泡を立てる力と熱と抵抗の力あった頃は逆流もまた面白いと思ってもいたが、今は泡の生じ場所と生じる時、それぞれの場所もそれぞれの心のままに、と思うようになって来ている。結果を見て面白いと想う事もあるが、その想い、流れ行く日々の中で、と想うようになって来た。
始まりを眺め、途中を眺め、結果を眺めての球叩き稼業30年。確かなる事は30歳の年を取ったとゆう事。ただ、30年の老いを覚えてはいません。55歳ともなる今もゴルフ始めた24歳の時と同じ気持ちであるような気分。30年が過ぎたのか、過ぎていないのか、過ぎたような過ぎていないような不確かな気分じゃあります。
人、変わり行く。人、初心に戻れと言う。ならば靴を脱ぎ、裸足になって球を叩けばよい。人間、靴を履いた時から変わり行く運命の途に立つものと思う。初心とは裸足だ。裸足で球を打ち、裸足でコースを歩けば、それこそがゴルフ初心なのでは・・・。
私が全国7塾、400人の塾生に最初に教えた事は初心の心であった。裸足で練習場の打席に立たせ、ボールを打たせた。人、悩む時もあれば悔いる時もあり、己への自信失くして己を見失う時もあろう。高き頂きありて深き谷もあり、低き峰には浅き谷が待つものと思う。人、それぞれの生き様、生き始めの時と場所は異なろうが、始まりし時と場所を知る者は故郷を持ちし者。
塾生400人の故郷は裸足の球叩き時。裸足で3カ月から1年の間、6アイアン1本で球を叩かせた塾生、戻る場所は裸足で立つ打席。
私は何も考えてはいない。何も考えないままに球を打っています。考えたいのであれば貴兄は考えている人に聞け。
私は何も考えてはいません。智の勇気、無智の覇気、そして裸足のゴルファーとなるを私は求めて行きたい。愚かなる男です。鈍なる人間です。貴兄の問いに答えていないのであればお許しあれ。
この「野性塾スペシャル版」は週刊GDの過去の連載からピックアップして転載したものであり、周囲の状況が現在と異なっていることが多々あります。
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