週刊ゴルフダイジェスト「BACK9」の内容を、バックナンバーとしてほぼそのまま転載しています。内容は紙雑誌掲載当時のものですので、詳細の状況等は変わっている場合があります。ご了承ください。
499ヤードの7番を初め、500ヤート近いパー4が連続した今回のブラックコース。長いだけでなくフェアウェイの幅もわずか20ヤード前後。さらに巨大な落葉樹が作るツリーラインは狭く、何よりアーリーアメリカンのコースは、スコットランドに似た荒々しい牙を剥いていた。例えば10番のパー4。選手でさえティショットがフェアウェイまで届かず、膝まであるラフの中で苦戦する姿が大会中、何度も目撃された。 また、豪雨に見舞われた第2ラウンドでのこと。巨大なバンカーが横たわる右ドッグレッグの7番で、タイガーが手にした2打目のクラブは3番アイアン、デービス・ラブIIIは、1番アイアンでグリーンを狙っている。一方で、ある選手は92を叩いたが、その際のハーフのスコアは、月イチ・ゴルファーの一般的なスコアともいえる48だった。 そんな中継を観ながら、テレビ桟敷の腕自慢たちは、内心「自分がラウンドしたら、どのくらいのスコアで回れるのだろう?」との関心を膨らませたはずだ。幸いにも、私はタイガー優勝の余韻が残る最終日の翌日にラウンドすることができた。 私が初めてベスページの存在を知ったのは1976年に遡る。公営コースとはいえ、当時のグリーンフィはわずか9ドル25セント。17番のグリーンを囲むバンカーなどは足跡だらけ。メジャーの舞台になった今回とは比較にならないメンテナンスだったのを覚えている。 以来、私にとって「ニューヨークの恋人」的存在になったブラックコース。通常プレーするときはバックティを使用するが、今回はパー70(通常はパー71)であることや、難度が著しく高かったこともあり1、7、17、18番など鍵になる7ホール以外はレギュラーティからプレーした。理由は、492ヤードの10番など、並みの飛距離では、第3打でもまだ膝が隠れるほどのラフと格闘する可能性があったからだ。ちなみに私は1番でいきなり右のラフにつかまり、そこから5ヤード刻みの前進で10。2番は6メートルから4パット……。 プレー前夜、宿泊中のホテルのバーで顔を合わせた米国の記者仲間に「ボールは少なくとも2ダース持参しろ」「120を切れたら、次のトーナメントで会うとき、1週間の飲み代は俺が持つ」などと冷やかされたが、ボールは1個もなくさず、パーは取れなかったものの105(56・49)でホールアウトした。 もっともボールはなくさなかったが、ボール探しに費した時間は長かった。後ろの組を待たせることもなかったが、所用時間は6時間20分。いかに皆がてこずったかが推測される。 ラウンド後、全米オープンのワースト記録を調べたら157ストロークというのがあった。これ、2ラウンドでなく18ホールの記録である。もっとも、19世紀末の1898年のものであるが。 タイガーしかアンダーパーを出せなかった全米オープンのブラックコースの印象は、素直に「フェアウェイが遠かった」。