週刊ゴルフダイジェスト「BACK9」の内容を、バックナンバーとしてほぼそのまま転載しています。内容は紙雑誌掲載当時のものですので、詳細の状況等は変わっている場合があります。ご了承ください。
54ホールに短縮された試合は、「先生の霊前にいい報告をしたい」と弔い合戦を誓った日大ゴルフ部出身の湯原信光が、その言葉どおり、92年の広島オープン以来10年ぶりのツアー優勝を果たした。湯原は、重い腰のヘルニアを患い、一時は歩行すらも困難な状況で99年の前半戦を休み、懸命のリハビリで6月のミズノオープンからツアーに復帰。その年の日本オープンでは2位になったが、本来のショットの切れは「自分の納得の行くものではない」と、いまだにリハビリ中としていた。 3位タイの好成績で初日をホールアウトしてきた湯原は、記者から竹田監督逝去を知らされると「嘘だろ!?」と一瞬絶句。「手術後、元気になられたと聞いていたので、それほど心配はしていなかった。僕がヘルニアで入院していたときに『頑張れよ』と声をかけてくれた。そのとき先生も弱っていたので『先生こそ頑張ってください』と言ったんです。存在自体がカリスマでした。(優勝して)先生にいい報告したい」と語っていたが、2日目に通算7アンダーとして島田正士とともにトップタイに。3日目、5組目がスタートしてグリーンに上がった時点で中断。そのまま翌日にサスペンデッドとなって、54ホールに短縮と決まったため、湯原は図らずもトップタイのまま最終日を迎えることとなった。 そのサスペンデッドの決定を巡って、「暴風雨の中でスタートした選手と、台風が通り過ぎてからスタートする選手では、あまりにも不公平」との不満が出た。インの1組目だった細川和彦は3ホール目の12番で中断となったが、その間、10番でOBを打ちダブルパーの8を叩き、さらに11、12番で連続ボギーと散々のゴルフ。 瞬間風速が22メートルを超える台風の中でスタートした選手と、台風一過の好天が予想される翌日のスタートとでは余りにも条件が違いすぎるため、選手側は「当然ノーゲームかと思った」のだが、ツアー側は「どんな状況下でも選手の打った球は選手の自己責任」としてそのスコアを採用するサスペンドを主張して対立した。 ツアー側は決勝ラウンドに進出した選手全員をロッカールームに集めて事情説明に努めた。 ツアー側の説明する大原則は「安易に試合を取り消しにしないで、スタート後のスコアはすべて採用する」というもの。これは99年以降JGTO(日本ゴルフツアー機構)の理念になっているとのことだったが、明文化されているものではなく、選手にその“理念”が浸透してなかったのは否めない。 「もともとゴルフは午前と午後に分かれるスタートの場合など天候の急変で不公平になる要素のあるゲームだから」と納得する選手もいたが、「翌日の好天が予想されているのに、なぜスタートを強行したのか」という不満。さらには「あくまでも72ホールの消化にこだわって最終日に36ホールをラウンドする方針でのサスペンドなら納得もいくが、64ホールとするなら、やはり全体の3分の1程度しかスタートしていない3日目は取り消してもいいのではないか」と様々な意見が噴出した。 確かに急変する天候で不利益を受けるのはゴルフというゲームの特徴で、先の全英オープンの3日目でも、強い風雨の真っ只中でプレーしたタイガー・ウッズが81を叩くという場面があった。もちろんツアー側も天候をにらみながら、72ホールを消化するために再三の中断を覚悟して3日目をスタートさせたのだが、台風15号のスピードが予想以上に遅かったため、不測の事態となってしまったようだ。 今年で30周年を迎えた記念大会は台風に水を差された恰好になったものの、湯原の「恩師に捧げる優勝」で幕を閉じ、関係者もほっと胸をなでおろしたのではないだろうか。