国際部門で52パーセントの票を獲得し、ゴルフ世界殿堂入りが決まった87年米女子ツアー賞金女王の岡本綾子。米ツアー17勝、欧州ツアー1勝、国内44勝の日本女子ゴルフ界の第一人者も、嬉しさに我を忘れたようだ。
5月9日、米女子ツアーコミッショナー、タイ・ボートゥ氏から関係者に「アヤコと連絡を取りたい」という報せが入った。この時点で、殿堂入りは予想されたが、朗報が確実になったのは翌週のボートゥ氏との電話でのこと。
「おめでとう、と言われてホントかな? と思ったけど、びっくりした。嬉しくて、何をどう話したか、電話を切った後で記憶にないくらい興奮しました」と、岡本はその瞬間を振り返り、声を弾ませる。
「ゴルフをやればやるほど、世界殿堂のメンバーに入るというのは、考えられないような気がしてきた。いろいろな賞や、1ストローク縮めるための努力とは違い、個人で何とかなるというものじゃない。世界に認められる力をつけなきゃいけないということを実感していた。それだけ重みを感じていた」と、価値を理解すればするほど、遠く見えていた殿堂入り。それだけに喜びはひとしおのようだ。
岡本が世界に羽ばたいた第一歩は、82年、米ツアーのアリゾナコパー・クラシックでの初優勝。「右下から5~6メートル、20~30㌢の軽いフックライン」とはっきり覚えているバーディーパットを沈め、プレーオフでサリー・リトルを破った。
これを皮切りに、84年、全英女子オープンを含む3試合で優勝して賞金ランキング3位となリ、順調に米国での地歩を固めていった。
ところが、ここで無理をしたことで落とし穴が待っていた。
85年、腰痛が悪化してついに手術を決意。患部に酵素を注入するパパイア・インジェクションという大手術を決意する。
スポーツ選手にとって、身体にメスを入れるという一大事。当時について岡本は、こう打ち明けている。
「もう(ゴルフを)やめても悔いはないという気持ちと、今やめるのは悔しいという気持ちが両方あって」と胸中は複雑だった。不安な気持ちを何通かの手紙にも託した。
「もうゴルフをやめるかもれない」としたためられたそれは、ソフトボール時代からのスポンサーであるダイワボウの社長を始め、親しい数人に送られた。
幸い、手術は無事成功し「今となっては(手紙を)早く隠して欲しい」と苦笑するが、その頃の迷いや悩みが、このエピソードからはひしひしと伝わってくる。
翌86年、復帰のときがやってくる。「ドクターに『リハビリがてら、トーナメントにエントリーしなさい』と言われて18ホールプレーし終わったときには『ああ、これで再びプレーできるんだな』と実感した」と、ツアーに戻り、2試合目には早くも優勝。
「その2年後に賞金女王にもなれて、ゴルフ人生にすごくツキを感じました」と、破竹の勢いで、世界への道を駆け上っていった。
しかし、メジャータイトルにだけは縁がなかった。それについては「運をモノにできなかった。チャンスはいっぱいありましたが、メジャーのトロフィーを持ち上げる一瞬の運が」と、何度も何度もうなずきながら確認するように語った。
「でも、それなりに一生懸命やってきたので、後悔していません。後悔するようならすでにクラブは置いているでしょう」と、満足感も漂わせた。
54歳の今でも現役プレーヤーとして、国内ツアーで活躍しており「出ている以上は優勝という二文字は追求していきたい。それが私自身のための挑戦」と、キッパリ。
現役引退についても「まだその答えは出さずにおこうと思います」と今後に意欲を見せており、まだまだ活躍が見られそうだ。
世界殿堂入りのセレモニーは11月14日。フロリダ州セントオーガスティンの世界ゴルフ殿堂で、ツアー部門で選出されたビジェイ・シンらとともに、晴れ舞台に臨む。
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