「プロゴルフ界のドン」と呼ばれた杉原輝雄が昨年末、74歳で他界。「確信ある我流は自信なき正統に勝る」(A・パーマー)を貫いた、ブレない一生だった。
「トーナメントゴルフを盛り上げてくれたのは、真の意味では杉原さんだった」とジャンボ尾崎。確かに尾崎は300ヤードの飛距離をひっさげ、トーナメントを興隆に導いたが、そこに立ちはだかったのが、162センチ60キロの杉原。しかも両ひじが曲がり、両腕が五角形になる不恰好なスウィング。「柔よく剛を制す」杉原にギャラリーは喝采を送ったものだ。
中学卒業後、定時制高校に通いながら自宅近くの茨木CCに洗濯係として入社した杉原。18歳でプロテスト合格したが、どのコースからも所属の声はかからず“売れ残り”。しかし、正確無比な我流スウィングを確立させると62年の日本オープンを皮切りに、レギュラー54勝、シニア6勝、ゴールドシニア2勝、海外1勝をマーク。
「ドン」のほかにも、競り合いに強いため「マムシ」と恐れられたり、パットなどの小技の天下一品ぶりから「グリーンの魔術師」とも呼ばれた。またその頃“オンナのクラブ”と卑下されていたクリーク(5W)に市民権を与え、「運び屋」と呼ばれたこともあり、異名の多い人だった。それほど多角的な職人芸の持ち主だったのだ。
74年、ツアーで一番長いコース(橋本CC・日米対抗)では個人優勝。「飛ばすもんは飛ばしただけで優越感がある。それを先に打って乗せとく。そうやって同スコアを続けていくと相手はだんだん焦って負けた気分になってくるんや。そんな時、よく飛ばしまんな……とつぶやくと相手はカッカしてくる(笑)。これが“後の先”をとって勝つ秘訣やね」と勝負哲学を披露してくれたものだ。
89年に永久シード権を獲得。97年には前立腺ガンを宣告されたが、手術はせず、投薬、加圧式トレーニングで現役を続けた。06年、68歳の最年長予選通過記録を樹立、10年には「中日クラウンズ」で同一大会連続出場世界記録(51回)もつくった。
戦績だけでなく、人としての信頼も篤(あつ)かった。驕慢な態度をとる者はスター選手でも正面から注意した。義理にも篤く、契約先も相手の都合以外で変えなかった。ファンとスポンサーへの感謝を忘れず、ファンサービス、プロアマ出場などを欠かしたことはなかった。
ツアーに出なくなった晩年は、自ら改造した新宝塚CCで月1回、中学の同級生とラウンドすることを無上の喜びとした。
じつに見事なゴルフ人生だったというべきだろう。合掌。
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