1970年代後半~80年代前半、米ツアーで爽やかな印象で活躍したブルース・リツキーが神経膠芽腫というガンのため死去。まだ67歳の若さだった。
リツキーは米ツアーで13勝、チャンピオンズツアーで7勝しているが、勝利数より彼のライフスタイルが記憶に強く残っている。ヒューストン大学ゴルフ部で活躍したが、卒業した年から半年、ゴルフをやめている。その理由は「飽きた」からという。これまでゴルフ漬けだったため、いったんゴルフから離れて自分を見つめ直したかったのだろう。ツアー入りしてからも、ゴルフだけに打ち込むタイプではなかった。ゆえにメジャーだからといって、入れ込む姿勢はまるでなし。
家族第一主義、そして自分の趣味を大事にした“人生エンジョイ派"であった。親友のカーチス・ストレンジが追悼文を寄せているが、「ぼくらは狩り、釣りをともにしたが、いちばん大事なのはリツキーと笑ったことだ」と。リツキーの人柄が偲ばれよう。
ゴルフの実力はライダーカップに選ばれたことでも証明できる。1981年、高いフェードの球筋で米国の勝利に寄与している。
日本にも何度か来日しているが、ある年の太平洋クラブマスターズでのこと。日本の大学ゴルフ部の学生がキャディについたが、キャディバッグを開けて仰天。中からパリパリになったタオルと、白く塩を吹いたシューズが出てきた。リツキーいわく「いや、雨の後2週間そのままだったよ」と笑ったという。
いつもニコニコ、ナイスガイでツアー仲間からも好かれ、ギャラリーからの人気も高く、まさに記録より記憶に残るゴルファーだった。合掌。
(編集委員・古川正則)
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